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② 日本型複言語主義の種火を消してはならない



大津由紀雄
慶應義塾大学名誉教授・関西大学客員教授

母語は邪魔者?

左側通行の日本で運転しなれた人が右側通行の国で運転することになると、たしかに、最初は戸惑うのですが、そう時間がかからず、右側通行に慣れてしまうものです。もちろん、慣れたからといっても対面する車がまったくいない道路を運転するときなど、左側を走って、ドキッとしたりすることもあります。ただ、ここで重要なのは、車の構造が異質であるわけではなく、右側通行用であると左ハンドルになっているとか、方向指示器とワーパーのレバーの取りつけ位置が反対になっているとかという違いだけですので、日本で身につけた運転の知識と技術を活かすことができるのです。
母語と外国語の関係もこの運転の例に似たところがあります。母語と外国語は違います。違うからこそ、外国語は学ばないと使えるようにはなりません。しかし、外国語を学ぶときにすでに身につけている母語の知識と運用能力を活かそうとするのはごく自然な考えです。ところが、現実は外国語学習にとって母語は邪魔者扱いされることが多い。実際、かつて外国語教育の分野では外国語学習における母語による「干渉」が重要な研究課題の一つでした。外国語学習にある種の「干渉」が存在するのは事実です。よく知られた例で言えば、基本的に「母音」(たとえば、「あ(a)」)ないしは「子音+母音」(たとえば、「か(ka)」)を音韻的な基本単位とする日本語を母語とする人が複数の子音が連続して現れたり、語末に子音が現れたりすると始めはうまく発音できないのが普通です。strongなどは語頭に3つも子音が連続して出てきますし、語末も子音です。そこで、音韻的な干渉が起き、英語を学ぶ日本語話者は母語である日本語の音韻構造に合わせて余分な母音を挿入してsutoronguと発音してしまうことがあるという、おなじみの現象です。

共通の基盤

確かに、「干渉」は外国語学習における母語の負の影響ですし、理屈としてもわかりやすいので、母語は悪役を引き受けざるを得ないという状況が長く続きました。しかし、その後、言語学の世界で普遍性への関心が高まりました。「普遍性」と聞くと、身構えてしまうかもしれませんが、考え方はきわめて単純なものです。
人間の言語は日本語、英語、スワヒリ語、日本手話など、たくさんの個別言語の姿をしています。言うまでもなく、それぞれ、個別性を持っています。日本語は日本語としての性質を、英語は英語としての性質を持っています。だからこそ、日本語を母語としている人が英語を身につけようとすると学びが必要になってくるのです。また、個別言語の数はおよそ7,000にも及び、その性質はじつに多様です。この点に着目して、言語の「多様性」ということもあります。
では、日本語、英語、スワヒリ語、日本手話などの個別言語はそれぞれの個別性を持つだけで、共通するところはないのでしょうか。赤ちゃんの立場に立って考えてみるとわかりやすいと思います。何語が自分の母語になるかは生まれてから決まります。両親とも日本語を母語とする赤ちゃんでも、なんらかの理由で英語だけを聞いて育てば英語が母語になります。もし、個別言語に共通するところがないのであると、生まれてから日本語が聞こえてきたら日本語を白紙状態から学習する、英語が聞こえてきたら英語を白紙状態から学習するということになります。しかも、赤ちゃんは7,000もある個別言語のどれにでも対応できるのです。ここはどう見ても白紙状態から始めるのではなく、どの個別言語にも共通する基盤があって、生まれてから聞こえてくる、あるいは、見えてくる情報をもとに、その共通の基盤を自分の母語に個別化していくと考える方が自然です。この共通の基盤が持っている性質を「普遍性」の正体だと考えることができます。つまり、赤ちゃんは持って生まれた普遍性と生後耳にしたり、目にしたりする情報(個別言語の情報)をもとに母語の体系を作り上げていくというわけです。

ことばへの気づき

3歳ぐらいになると母語の骨格ができあがってきますので、そのころから外国語を意識的に学ぼうとすると上でお話ししたような(”sutorongu”の例を思い出してください)「悪さ」をするようになります。一方、4歳ごろになると、自分の母語を客観視でき始めます。たとえば、しりとりができるようになります(もっとも、他の発達と同じく、ことばについての発達のペースも個人差があるので、しりとりがうまくできなくても気にする必要はありません)。わたくしはその現象を「ことばへの気づき」と呼んでいます。ことばへの気づきは放っておいてもある程度は発達するのですが、周りからの支援があるとより豊かな気づきが生まれる可能性が高まります。ことばへの気づきはことばが持つ豊かな世界へ子どもたちを誘うきっかけにもなりますし、思考力を高め、ことばの運用能力を伸ばすことにもつながります。その意味で、わたくしは学齢前から小学校段階にかけてこのことばへの気づきの発達を大いに伸ばしてあげることが重要だと考えます。親子間の、あるいは、友人同士のことばについての話し合いに加えて、学校でもことばについていろいろと取り上げられるようになるといいですね。じつは、現在の国語の教科書にもそのためのよい素材がたくさん盛り込まれているのですが、実際のところはあまりそれが活用されていないということのようです。まことに残念です。

日本型複言語主義って

小学校段階では子どもたちの母語である日本語を使って、ことばへの気づきの発達を支援することが大切です。それは母語を効果的に運用するためでもありますが、それに加えて、ことばへの気づきが英語学習の基礎となるからです。すでにみたように、日本語も、英語も普遍性と呼ばれる共通の基盤の上に築かれた体系ですから、母語である日本語への気づきを利用して、英語学習を進めることができます。
具体的な例を挙げましょう。「温泉」と「卵」という2つの単語をくっつけると、「温泉卵」という少し大きな単語ができます。しかし、よく考えてみると、この2つの単語をくっつけるときに、「温泉」を先に、「卵」を後にしなくてはならないということはありません。逆の順序でくっつけることもできます。できあがるのは、…?そう、「卵温泉」です。《「卵温泉」だなんて単語は聞いたことがないよ》とおっしゃるかもしれませんが、聞いたことがなくても「卵温泉」とはどんなものか想像することはできますね。《これが正解!》というものはありませんが、ちょっと考えただけでもいくつか候補が浮かびます。「湯船に卵が浮いている温泉」(きっと、ゆで卵になっているでしょうから、お風呂につかりながら、ゆで卵をほおばるだなんてことができるかもしれません)。「その温泉に入ると顔が卵のようにつやつやになる温泉」。「卵づくしの夕食が名物の温泉」。このほかにも、いろいろと思い浮かぶでしょう。共通しているのは「卵温泉」とは卵となんらかの関係がある温泉のことなのだという点です。
これは日本語を利用した、ちょっとした実験ですが、この実験からわかることは日本語では単語の順序が重要だということです。単語の順序なので、「語順」と言います。しかも、2つの単語をくっつけたときに、意味の上で重要なのは後に来る単語です。今の例でいえば、「温泉卵」は卵、「卵温泉」は温泉ですね。
語順が重要なのはほかの言語でも同じです。英語でも語順が重要です。いまの日本語の例に似た例を考えてみましょう。英語にあまり慣れていない人(先生でも、子どもでも)もいますから、英語由来の外来語(で元々の発音や意味とのずれが比較的小さいもの)を利用するといいでしょう。「テーブル」と「マウンテン」というのはどうでしょうか。この2つの単語をくっつけると、「テーブルマウンテン」と「マウンテンテーブル」というのができあがります。さて、先ほどの日本語の例に照らして考えてみると、それぞれどんな意味を持ちうるのかがわかるはずです。
こうして、語順の重要性を垣間見た後で、文の成り立ちに子どもたちを誘います。John can see Mary.とMary can see John.は同じ単語からできている文ですが、語順が違います。JohnとMaryが出てくる順序が逆になっています。それによって、JohnがMaryを見ることができる(最初の文)のか、MaryがJohnを見ることができる(後の文)のかが決まるというわけです。
この辺りを出発点にして、日本語と英語を行き来しながら、英語の力をつけ、同時に、日本語についてもことばへの気づきを豊かなものにしていくことができます。この考えをわたくしは「日本型複言語主義」と呼んでいます。「複言語主義」の「複」は「複数」の「複」で、母語と外国語が有機的に関連づけられた形で個人の中に共存している状態を望ましいものとする考え方です。この考えの発祥の地はヨーロッパで、大学入試に民間英語試験を導入するという騒動の時に話題にのぼったCEFRの基盤をなすものです。余談ですが、あの騒動の時にはCEFRは異なった民間試験を同じ土俵にのせるための便利ツールとして使われてしまいましたが、CEFRの基盤をなす複言語主義についてはまったくと言っていいほど話題になりませんでした。
ということで、ヨーロッパに端を発する複言語主義ですが、その背景にはヨーロッパの言語事情というものがあり、個人の中で母語と外国語が関連づけられた状態で共存することをよしとするという中核的な一致点以外のところでは違いもあります。そこで、わたくしは上で述べた考えを「日本型」複言語主義と名づけることにしました。
近年、日本語を母語としない子どもたちも増加しています。その場合も、それぞれの子どもの母語への気づきから出発することが望ましいことはご理解いただけると思います。ただ、そのために準備しなくてはならないことがたくさんあります。今後の重要な課題です。

日本型複言語主義が学習指導要領に埋め込まれている

インターネットが普及したおかげでさまざまな情報がごく簡単に手に入るようになりました。もちろん、そうやって入手できる情報の質はさまざまで、劣悪な情報や悪意をもった情報もありますから注意する必要はありますが、たとえば、文部科学省がそのサイト上に学習指導要領とその解説を載せてくれているので、いつでも容易に参照することができます。
熟読済みであるというかたはともかく、この機会に学習指導要領をもう一度、読み直してみてはいかがでしょうか。ご自身が直接関わっている校種や教科だけでなく、もう少し広い範囲で読み直してみることも大いに意味があると思います。教科について言えば、このサイトを読んでくださっている先生は大部分が英語の先生のようですが、外国語活動や外国語科の部分だけでなく、少なくとも国語科の部分には目を通してほしいと思います。
実際に学習指導要領を読み直してみると、そのいろいろなところに、わたくしの言う「日本型複言語主義」に通ずる考えが見て取れます。たとえば、小学校国語科には、「言語能力の向上を図る観点から、外国語活動及び外国語科など他教科等との関連を積極的に図り、指導の効果を高めるようにすること」(p.241)、小学校外国語活動には、「英語の音声やリズムなどに慣れ親しむとともに、日本語との違いを知り、言葉の面白さや豊かさに気付くこと」(p.174)、そして、小学校外国語科には、「次に示す事項について,日本語と英語の語順の違い等に気付かせるとともに,基本的な表現として,意味のある文脈でのコミュニケーションの中で繰り返し触れることを通して活用すること」(p.158)といった文言が埋め込まれています。
もう1つ例を挙げれば、中学校国語科解説には、「日本語と外国語とを比較し、それぞれを相対的に捉えることによって、日本語の文の構成についての気付きを促すことも考えられる」(p.78)とかなり踏み込んだ指摘がなされています。同じ解説には、さらに、「言語の働き」についても、「[国語科での]指導に当たっては、外国語科における指導との関連を図り、相互に指導の効果を高めることが考えられる」(p.18)という文言も見つかります。
ところが、何冊か、学習指導要領の解説本を読んでみたのですが、これまでのところ、日本型複言語主義の意義を理解した解説や実践例はあまり多くありません。日本型複言語主義を学校教育の中に根づかせることは今後の学校教育のために重要なことであり、わたくしもさらに努力を重ねていく所存です。この「言語教育時評」や、まもなく、いいずな書店のウェブサイトに掲載予定の動画シリーズでも日本型複言語主義についての解説や実践例を積極的に取り上げていきたいと思います。
せっかく、学習指導要領に埋め込まれるようになったのですから、日本型複言語主義の種火を消してはならなりません。一人でも多くのかたにこの運動に参加いただきたいと思います。ぜひご一緒に!

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