個人的には,チャプター8の「喜びに満ちた学び」がとても印象に残っている。

 正直,自分は勉強がとてもきらいだ。苦手ではあるけれど,それ以前に「勉強したい」という気持ちにならない。

 思い返してみると昔からそういうわけではなかった気がする。それこそ小学校低学年時代は自ら進んで勉強をしていたように思う。毎日毎日くり返される授業で国語では新しく先生が紹介する漢字にワクワクしていた。算数では,初めて解く問題を見ると失敗など知らないというように挑んでいた。新たに知る世界に心踊らない時はなかった。

 しかし中学へ進学し,だんだんと周りと比べられるようになった。より良い点数,より良い順位をとれと言われるようになった。いつのまにか,自分にとっての勉強が「新しい知の世界を知る」ことから「点数を取るため,より良い順位をとるため」に変わっていったのだ。

 そして今,高校生となり,大学受験を視野に入れはじめ,より一層その感覚は強くなってきている。

 正直,このチャプター8に取り組むまで昔の自分の勉強なんてすっかり忘れてしまっていた。周りに認められようと必死で,勉強を楽しむなんてことは頭のスミにも置いていなかった。

 しかしこの文章を読んで,改めて「勉強は楽しいものだ」と教えられた気がする。単に点数や順位だけが勉強することのすべてではないと,思わず悟らされた。

 これから定期テストや模試が増え,大学受験という大きな節目へ向かっていくと思うが,ここで学んだ,「勉強」についてを忘れずに受験勉強も楽しんでいこうと思う。


チャプター8「学ぶ楽しさとはどういうことか?」はまぁくんを中心に学ぶことの本来の喜び,楽しさについて書かれていた。自分の名は正高であり自分もまーくんと呼ばれていた。単なる偶然だがとても親近感が沸いた。そして物語に引きずり込まれた。

 高校二年,今現在,勉強嫌い,それも良く居るのではなく比類無い程度である。終わらない課題ばかり。そんな自分にも昔はまぁくんのようなまーくん時代があった。

 保育園に通っていた頃の自分は限りなく負けず嫌いでずる賢くやんちゃ坊主だった。そんな当時の人気だった遊びの主たる2つがドッヂボールと泥団子作りだった。負けず嫌いだった自分は当然一番になりたかった。でも悪くはなかった運動神経をもってしてもドッヂボールには上が多過ぎた。そして持ち前のずる賢さでドッヂボールは早々に諦め泥団子作りの達人になろうとした。周りは同じような泥玉を作るやつばかりだった。これなら勝ち目はある。と思った。唯一一人を除いて,その一人は経験の塊,先生だった。先生の作る泥団子は丁寧に磨き上げられまるで某丸っこいチョコレート菓子のようだった。No1に貪欲だった自分はその先生すら打ち負かしてやろうと思った。ただ経験の塊にはそう易々と勝てるはずもなかった。そんな時に祖父がPCを使っているのを見た。これだと思った。見様見真似でいじった。説明書なんて見なかった。それでも使い方はどんどん覚えた。もちろん泥団子の作り方も探し回った。結果先生に勝つとまでは行かないまでも負けず劣らずな物を作れるまでになった。そのころは学ぶために学んでいた気がする。それも勝手に。しかも楽しんで。チャプター8の話を読んでこんなことが怒濤のように思い出された。だからまぁくんの気持ちがよく理解できた。そしていつ,何故自分は学びの本来の楽しさを忘れてしまったのだろうと思った。

 そしてこの先少し学びを楽しめそうだ。


 自分は第八章の「喜びに満ちた学び」が一番印象に残った。「自分はなぜ勉強するのか。」これは誰もが疑問に思ったことがあるだろう。テレビ番組では,「学校の勉強は無意味だ。」と評論家が発言するのをたまに見る。あるいは本屋では,「学歴社会は終わりだ。」とか,「知識だけのバカ。」というような内容の本をよく見る。それらを見聞きするたびに,自分の勉強の意欲が削がれていく。一体自分達は何のために勉強するのだろうか。

 この章では,様々な世界に興味を持ち,のめり込んでいくまぁくんの姿が描かれている。彼が平仮名を覚えると道路の「止まれ」の「まれ」だけ読めるようになる。そして彼は漢字を覚え,絵本も読めるようになる。自分は,何か新しいことを学ぶと,昨日見た景色と同じ景色が,今日は昨日より違って見えるのだろうと思う。もし,英語圏に旅行に行くなら,英語が分からないよりも,よく使いこなせる方が,旅行を楽しめるにきまっている。現地を観光する時,その地の歴史や文化を理解していればより深く楽しめるだろう。これは旅行に限った話ではない。自分が普段通学で使う電車も,何も知らなければただの憂鬱な満員電車だ。しかし,その路線の起点から終点,その電車の歴史,その路線の歴史などを知っていれば,例えば沿線で暮らす人々の歴史の中での思いや生活を想像することができる。たった数十分の乗車が,時間的にも空間的にも広げられ,壮大な旅になりうる。そうなれば,毎朝が豊かで楽しく思えてくるだろう。

 自分は,人は学ぶことによって,自分の世界をどこまでも広げることができると思う。だから自分たちは勉強するのだ。自分は,世界はとてつもなく広く,深く,多くのもので溢れていると思う。その世界に,自分の中の意識の世界が少しでも近づけたら,日々の生活はよく豊かなものになるだろう。自分も,学校の勉強はもちろん,多くの本を読み,様々な体験をし,自分の世界を広げていきたい。

 このワークからは,英語だけではない一般的な教養をたくさん学ぶことができた。特にこのワークの題名にあるように,自分の将来や自分の生き方について考えさせられる話題が多かった。

 私が最も興味をもったのは,第8章であった。そう思った理由は,1章から7章を読んだからだ。1から7章の話題は,現代社会において,よく話に出ることがあり,とても重要なことである。しかし,それとはうって変わって8章はある男の子が学ぶ素晴らしさを教えてくれた,というありきたりな話だ。けれど,1番大切なことであると思う。1から7章でも,学ぶことについての言及はあったし,学者の論などの話もあった。かたい話のように思えた。そのような話を読んだからこそ,すなおに学ぶことを楽しめることが素晴らしいと思った。

 私は高校生で,最近は教科書に載っている事柄ばかりを勉強し,がんばっている。けれど,それがどこまで楽しいかと言われれば,まあまあで,好きな理数科目でさえ,心から楽しいと思ったことはそこまでない。けれどこの8章の話で,主人公はたわいない日常の発見から学ぶことの楽しさを見つけている。これを読んだ時,本当の学ぶ楽しさは,教えられて学ぶのではなく,自分で発見することなのだと思った。本当にたわいないことなのかもしれない。日常にあふれている情報なのかもしれない。けれどそれを発見した時に,心から喜べる心こそ,学ぶ意欲であり,楽しさであると思う。何に対しても冷たい反応の人には分かりえない,本当の楽しさだと思う。

 私は,豊かな感受性を持って,日常の新しい発見を楽しみ,かつその延長線上として高校での勉強も心から楽しめるとよいと思う。